2016年8月9日火曜日

かつては否定、今は容認


戦後天皇制めぐる共産党の無節操
憲法国会での野坂演説

「海つばめ」第697・698号(1998年10月11・18日)掲載

 以下は、戦後の〝憲法国会〟(1946年)における、共産党野坂参三の天皇制をめぐる演説である。もちろん、彼は狭いプチブル民主主義の観点から天皇制を論じており、その意味での限界ははっきりしている、しかしにもかかわらず、この演説は戦後の天皇制の本質やその矛盾を鋭く暴露してもいるであろう。我々が半世紀前の共産党の議員の演説を紹介するのは、共産党が現在「天皇制を棚上げして」、ブルジョア政党、あるいは堕落したプチブル政党との連合を追求し、妥協主義を持ってまわり、転落と裏切りの道を歩んでいるからである。彼らはかつての自らの主張にさえ忠実ではないのだ。彼らは当時発表された、自分たちの憲法草案の中でも、「天皇制はどんな形をとれ、いかなる民主主義体制とも相入れない」とはっきり語ってもいる。労働者はこうした無節操で、平気で自らの信念も投げ捨てていくような党を決して信頼することはできないのだ。

《連合国は国体護持を許したか》

 第三の問題。これはここで何度も繰り返されましたが、私はどうしてもおききしなければならない。すなわち主権が、一体、どこにあるかという問題である。まず第一に、総理大臣におききしたいのは、総理大臣は国体護持を条件として「ポツダム」宣言を受諾した、と申されたことです。これに関して、総理大臣は、連合国の回答は、なんら国体問題については言及しなかった、と二十六日の本会議で申されました。しかしながら、日本の降伏時に、日本政府が国体護持を条件として提出したのは事実である。これにたいして総理大臣は回答がなかったようにいわれたが、私の解釈では、明らかに回答があった。これは連合国側の回答の第四項にこう書いてある。すなわち、日本の究極の政体は、「ポツダム」宣言により、日本人民の自由に表明された意思によって樹立さるべしと。これが問題です。つまり日本の究極の政体、英語では「アルティメート・フォーム・オブ・ザ・ガバメント・オブ・ジャパン」、こういう風になっている。つまり「ガバメント」の最終の形態、この「ガバメント」という言葉は、国体とも政体とも訳し得るが、しかし外国では国体と政体とに区別はない。日本でもたとえば伊藤博文のごとき人でも、初期の間には二つの言葉を区別なしに使つている。ですから連合国は、これによって日本政府の国体護持に関する質問に回答を与えたのであると、われわれは解釈できます。一体、総理大臣はこの問題についてどういう風に考えられるか、はたして連合国は回答をしなかったかどうか。私の考えでは明らかに回答しているとしか考えられない。すなわち、日本の国体は人民の意思によって決定せよということが、ここで回答されている。そうすると総理大臣の言葉には矛盾があるのか。あるいはウソであるのか。この点を私ははっきりおききしたい。

《国民の一人である天皇が特権をもつ》 

 それから次に、主権の問題についてであります。天皇を含む国民、これが毎度毎度問題になっておりますが、ここでおききいたしたいのは、天皇が国民の一人ならば、いったい新しい憲法草案の第十三条には、「すべて国民は、法の下に平等であって」、そうして「社会的身分または門地により、政治的、経済的または社会的関係において、差別を受けない」と書いてある。いったい、これといかなる関連があるのか。もし天皇が国民の一人であるならば、明らかに平等であり、差別を受けないはずである。しかし憲法の初めには、ちゃんとこれが区別されている。これをどういう風に解釈されるか。これがおききしたい。もし天皇が国民の一員であるならば、選挙権を持たれなければならないし、同時にまた選挙されることもできる。もし国民が元首ということをかりに欲するならば、国民の一人であるところの天皇をなぜ選挙しないのか、こういうこともわれわれは質問したい。

《新しい神権説》

 またいろいろ政府の御回答のなかに、この天皇の地位は国民の感情から生まれている、といわれている。感情を基礎にするという風な君主制が世界のどこにありますか。感情を基礎とする、これは憲法ではなくして小説だ。(笑声)これはまた新しい神権説だといえる。新しい神権説。もう今日では、あの古い神権説を信ずるものは恐らくないと思う。第一、国民の感情は変化する。たとえば天皇制一つの問題にしても、去年の十月に共産党が合法化して活動を始めた時、天皇制打倒の「スローガン」を掲げた。しかし、あの時、恐らくこれを支持した者は数百人か、多くて数千人に過ぎなかった。しかしながら、それから半年たった4月10日の選挙には、御存知のように、二百万以上の票数がこれを支持している。これを基礎にして安泰をはかるということは……(発言者多し。議場騒然。議長「静粛に願います」)非常に危いことであります。(発言者多し。議長「静粛に願います」)

《主権は国民にあるか》

 それから、この問題について、もう一言はっきりとおききしたいことは、政府の真意はどこにあるのか。いったい、主権は国民の手にあるのか天皇の手にあるのか。これをここでごまかさずに、はっきりといってもらいたい。なぜ、この問題をそのようにしてあいまいにされるのか、これが私たちにはわからない。

《なぜ日本文と英文とは違うのか》

 それから、その次には、この憲法草案と英文との間に若干の相違がある。これはすでに雑誌の上でも、ある人が指摘しておりますが、憲法前文のなかに「国民の総意が至高なるものである」と書いてある。これが英文ではどうなっているかといえば「ソバレーンテイ・オブ・ザ・ピープルス・ウイル」、つまり人民意思に主権がある。こういう風になっている。(発言する者あり。議長「静粛に」)

 ここでは、はっきりと、人民の手に主権があると書いてある。ところが、日本文草案では、どうしてこういうような、はっきりしない「国民の総意が至高」という風な言葉を使わなければならないか。なぜこの英文と同じように使うことができないのか。これが一つ。もう一つ、第九十五条に、日本文では「天皇又は摂政及び国務大臣」等々と書いて、「裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し」うんぬんと書いてあります。すなわち「天皇又は摂政及び」と「及び」という字がある。ところが英文の中では「エンペラー・オア・ザ・リーゼント」そうして「コンマ」になっている。「アンド」という字が入っていない。これは小さい問題のようですが、非常に重要な問題になってくる。なぜならばその次に出てくる文句のなかに「その他の公務員」ということがある。英文のなかでは、明らかに天皇および摂政も公務員のなかに含まれている。公務員になっている。しかしこの日本文では、天皇または摂政は、別個になっている。この点について、私は総理大臣および金森国務大臣におききしたい。いったい天皇は公務員なのかどうなのか。もし公務員ならば第十四条の規定が適用されなければならないことになる。

 それから、おききしたいことは、いったい、この日本文と英文とどちらが正しいのか。(「そんなことがわからないのか」と叫ぶ者あり)

 日本文が正しい、われわれは……(議場騒然)
 日本文が………(議場騒然)
 日本文がもちろん原文です。(発言する者多し。議長「静粛に願います」「静粛に、静粛に、静粛に願います」発言する者多し。議長「静粛に願います」)

 日本文にも誤植ということがあります。(「取消せ」「英文が何だ」その他発言する者多し)

 われわれのいわんとするところは……(議場騒然)

《英文は民主的、日本文は反動的》

 英文だけを見るといかにも民主的である。(「取消せ」と叫び、その他発言する者多し。議長「野坂君に申し上げます。英文につきましては御注意を願います」)

 私のおききしたいのは、私のいいたいことは、英文の翻訳を見るといかにも民主的にできている。はっきりしている。しかし、日本の原文はそうでない。非常にアイマイモコ(曖昧模糊)の点が多い。この点について、総理大臣はどういう風にお考えになるか。(「そんなことは答弁の必要なし」と叫びその他発言する者多し。議長「静粛に願います」)

《共産党の天皇制廃止論》

 日本共産党は、天皇制の廃止ということを申しております。なぜか。この憲法とどういう関連をもつか。私たちの主張は、この憲法草案第七条でいろいろな権限が天皇に与えてある。これをわれわれはなくしたい。すなわち、第七条の二には、国会を天皇が召集するといっている。ところが、もし天皇が国会を召集することをがえんじなかった場合はどうなるか。衆議院を解散する権限も天皇の手にある。もし天皇が衆議院を解散しないという場合、どうなるのか。官吏の任免とか、あるいは信任状を認証するとか、あるいはその他、大赦・特赦・減刑等を認証するとか、あるいは批准書を認証するとか、いろいろ出ております。もしこれを天皇が認証しないといったらどうなるのか。われわれとしては、このような特殊な権限を天皇に持たせない方がよい。(議場騒然。議長「静粛に願います」)これが、すなわち、われわれの主張する天皇制廃止であります。

 社会党の議員が、天皇制の下でも社会主義ができると、申されましたが、しかし日本の現状と「ヨーロッパ」の状態とは非常な違いがあることを考えなければならない。日本の現在において、あるいは近き将来において、反動勢力・軍国主義的勢力は相当がん強に残る。こういう場合に天皇の手にかような特権をゆだねることは、これらの反動分子が特権を利用して、再び太平洋戦争、その他の侵略戦争を起こす可能性があり、反動政治を行なう危険がある。だから、われわれはこういう特権を排除しなければならぬ。第七条をやめて、人民の手に完全な主権があること、そうして、国会に全権が握られていることを憲法に明記しなければならぬ。これが私たちの主張である。これについて総理大臣に御回答を願いたい。

《天皇の特権は反動に利用される》

 さらに共産党は、当憲法草案が発表された時、主権在民を明記することを主張しました。幸いにして、われわれの要求はいれられ、前文にこれが明記されました。これはこの憲法草案の一歩前進である。しかし、それではこの草案は果たして主権在国民の思想を一貫したものであるかどうか。遺憾ながら実質はそうではない。ここに問題がある。主権在民の羊頭狗肉を掲げて非民主的なク(狗)肉、いいかえれば主権在君のク肉を売らんとするのがこの憲法であります。さきほど、どなたかそこで羊頭ク肉といわれたが、その通りだと私は思います。これが当草案の本質である。どういう意味であるかといえば、第一に、もし国民に主権があるならば、なぜ憲法の第一章にまず国民についての規定を設けないのか。この草案では第一章に国民が来るのではなくて、国民のなかの一人に過ぎない天皇の規定が第一に来ております。金森国務大臣はこれを説明していわく、天皇は国民の統合の象徴だから……(声あり)

 しかし、どうして象徴を前にして、実体をあとにしなければならないのか。ここに問題がある。天皇の地位は国民の意思に由来すると憲法に明記してある。これは国民が実体であって、天皇は単なる象徴に過ぎない、こう書いてある。それならば、実体であるところの国民がまず第一に規定さるべきである。日の丸の旗は、わが国の象徴である。では第一章第一条に日の丸の旗を規定することに、政府は賛成されるでありましょうか。勿論賛成されない。世界のどこの憲法にも、象徴である国旗をヘキ頭に掲げるものはない。それでは、なぜ政府はこのようなことをするのであるか。それは、すなわち天皇を神聖化し、天皇に特権的地位を与え、天皇を国民の上に君臨させようとする政府の意図があるからであります。

 第二に、そもそも民主主義とは、国民が自らの手によって政治を行なうことであります。したがって国家機構のなかに、国民の意思によって自由に選任し、あるいはヒ免することのできない機関を設けることは、これは民主主義ではない。(「ノーノー」)これは必要なことです。ところが、当草案には国民が選任し、ヒ免することのできない世襲の天皇を存置し、その天皇の手に諸種の重要な特権を与えております。すなわち当草案第六条および第七条によって、天皇の手には十一のいろいろの政治的な、あるいは儀礼的な国事が与えられている。その中には総理大臣の任命、国会の召集解散、総選挙の執行のごとき重要な権限が含まれております。かくのごとき重要な権限を天皇に与えることは、民主主義の原則からいえば明らかに逆行するものである。

 これらの天皇の権限は、国会の指名や、あるいは内閣の承認と助言が必要でありますが、しかし天皇が総理大臣の任命や国会の召集・解散や総選挙の執行を拒絶した時にはどうなるか。この憲法には拒絶しないという保障は一つもありません。ここに、わが国の政治の将来にとって重大な危険があるとわれわれは考えるのであります。過去の日本の歴史にあっては、官僚や軍閥が天皇の特権を利用してあらゆる虐政を行なって来た。この憲法草案ではそのようなことが将来ふたたび起こらないという保障はないのであります。天皇の特権的地位が、将来ふたたび官僚や保守反動勢力の要さいとならないという保障はないのであります。わが共産党が当憲法に賛成しない理由もここにあるのであります。

 第三に、政府は天皇にたいする不敬罪が存在することを言明しております。しかも政府の発表によれば、この不敬罪は現行の条文をそのまま存続する、こういう風に言っております。これは天皇が国民の一人であり、しかも国民は法律の下に平等であるという原則をじゅうりんするものである。単に象徴であるというこの一事からして、なぜこのような異例の取扱いがなされなければならないか。もし天皇が国民の一人であるならば一般国民の地位におけると同様に、名誉棄損罪または侮辱罪の法文を適用すればそれでよいではないか。さらに、不敬罪に問われ、あるいは問われないか、この限界はもっぱら裁判官にまかされております。今日まで不敬罪の罪名によって、いかに多くの無コ(辜)の民がとらわれ、またいかに言論が圧迫されたか、これは世界周知の事実であります。現在世界のどこを見ても、共和国はもとより、君王国においてさえも、不敬罪なるものは実質的には存在していない。「イギリス」においても、これに関する規定はありますが、実質的には死文化している。しかし、日本においては、もしこの不敬罪が規定されるならば、過去におけると同様に、これが警察による人民抑圧の武器となることはきわめて明らかであります。このことは、現に行なわれている東京地方裁判所における一労働者の「プラカード」事件を見てもはっきりしている。不敬罪のごときは、言論の自由を抑制する「ポツダム」宣言の明らかな違反であると断ずることができる。ここにわれわれが当草案に反対する理由があります。

 第四に、金森国務大臣は、天皇はあこがれの中心であると言われた。あるいは心のつながりであるとも言われた。これは天皇を神秘化し、宗教化するための説明です。たしかに、わが国の天皇は、一面では、今日まで、政治上および軍事上の最高統治者であり、同時に最高統帥者であった。だが他面において、天皇は国民の間に半宗教的な役割を演じて来た。国務大臣のいうところのあこがれの中心とは、すなわち半宗教的存在たることを説明しているにほかならない。ところが当憲法草案の第十八条には「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。」こう書いてあります。これは、明らかに、宗教と政治との分離を規定している。そうすれば、当草案第一章において、半宗教的存在である天皇の手に、国の特権や政治上の権力を持たすことは、明らかに、当草案第十八条の違反であると断ぜざるを得ない。(発言する者あり)これは明らかに宗教と政治との結合である。この点については特に連合国側においても、特別な警告を発している。われわれは、これは明らかに宗教的なものに、政権をゆだねることを規定しているものにほかならないと考える。それゆえに、われわれはこのような憲法にどうしても賛成することができない。

 当議場において、かつてある議員は、天皇をもって実のない花であるといわれました。山吹の花である、こういう比ユ(喩)を用いられました。もし天皇がなんら実際の権力のない、単なる象徴であるならば何をかいわんやである。しかしこの憲法草案は、天皇を山吹の花とせずして、天皇の手に実際的に政治的特権を与えている。

 われわれが、なぜこの問題をこのようにしつこく申すかと言えば、それは今日の日本の置かれているところの特殊の状態から、すなわちわが国にはいまなお保守反動勢力・軍国主義勢力がガン強に残っているという事実をわれわれは認めるからである。(「ノーノー」)これが残っていることをわれわれは認めなければならない。このとき、少しでも一般国民の上に君臨する特権者が存在するときには、これを利用して再び反動勢力を復活する危険があるからであります。(拍手)これは将来のことではありません、昨日、一昨日、一体この議場においてどんなことが起こりましたか。樋貝議長は天皇にたいする忠誠の名によって、われわれの憲法審議を妨害されたではないか。すなわち天皇の名によってこの議場、この演壇において非立憲的なことが行なわれた。(拍手)またわれわれは「ドイツ」の例を取って見てもよい。あの「ワイマール」憲法、あれは理想的な、民主的な憲法といわれておりました。しかしながら、この憲法が、しかも社会民主党の手によって作られ、その政府の下にこれが執行された。それにもかかわらず――このような民主的憲法にかかわらず、その後において「ヒトラー」は、この憲法を土台として、あの「ナチ・ドイツ」を実現している。いまの日本は「ドイツ」に比べれば、まだ多くの保守反動的な勢力が残っている。こういうときに、このような非民主的な特権者を残すということは、明らかにわれわれの将来に重大な危険を残すということになる。われわれは、日本の将来のために、子孫の将来のために、民主主義のために、少しでも反動的に利用され得るような条項を含む憲法に、どうしても賛成することはできない。われわれは、草案の第一章は民主主義に反する規定であると認める。ここにわれわれがこの草案に反対する第二の理由があります。以上のごとく天皇を規定する第一章は、古き天皇制を新しい形において残さんとするものであります。これは明らかに反民主的規定である。

《憲法草案に反対する》

 以上がわが共産党が当憲法に反対する重要な理由であります。要するに、当憲法はわが国民と世界の人民の要望するような徹底した完全な民主主義ではない。これは羊頭ク肉の憲法である。財産権を擁護して、勤労人民の権利を徹底的に保障しない憲法である。わが民族の独立を保障しない憲法である。天皇の手に特権がある。参議院は官僚や保守反動勢力の要さいとなる。かくして、禍を将来に残す憲法である。

《共産党の天皇制廃止論》

 日本共産党は、天皇制の廃止ということを申しております。なぜか。この憲法とどういう関連をもつか。私たちの主張は、この憲法草案第七条でいろいろな権限が天皇に与えてある。これをわれわれはなくしたい。すなわち、第七条の二には、国会を天皇が召集するといっている。ところが、もし天皇が国会を召集することをがえんじなかった場合はどうなるか。衆議院を解散する権限も天皇の手にある。もし天皇が衆議院を解散しないという場合、どうなるのか。官吏の任免とか、あるいは信任状を認証するとか、あるいはその他、大赦・特赦・減刑等を認証するとか、あるいは批准書を認証するとか、いろいろ出ております。もしこれを天皇が認証しないといったらどうなるのか。われわれとしては、このような特殊な権限を天皇に持たせない方がよい。(議場騒然。議長「静粛に願います」)これが、すなわち、われわれの主張する天皇制廃止であります。
 社会党の議員が、天皇制の下でも社会主義ができると、申されましたが、しかし日本の現状と「ヨーロッパ」の状態とは非常な違いがあることを考えなければならない。日本の現在において、あるいは近き将来において、反動勢力・軍国主義的勢力は相当がん強に残る。こういう場合に天皇の手にかような特権をゆだねることは、これらの反動分子が特権を利用して、再び太平洋戦争、その他の侵略戦争を起こす可能性があり、反動政治を行なう危険がある。だから、われわれはこういう特権を排除しなければならぬ。第七条をやめて、人民の手に完全な主権があること、そうして、国会に全権が握られていることを憲法に明記しなければならぬ。これが私たちの主張である。これについて総理大臣に御回答を願いたい。

《天皇の特権は反動に利用される》

 さらに共産党は、当憲法草案が発表された時、主権在民を明記することを主張しました。幸いにして、われわれの要求はいれられ、前文にこれが明記されました。これはこの憲法草案の一歩前進である。しかし、それではこの草案は果たして主権在国民の思想を一貫したものであるかどうか。遺憾ながら実質はそうではない。ここに問題がある。主権在民の羊頭狗肉を掲げて非民主的なク(狗)肉、いいかえれば主権在君のク肉を売らんとするのがこの憲法であります。さきほど、どなたかそこで羊頭ク肉といわれたが、その通りだと私は思います。これが当草案の本質である。どういう意味であるかといえば、第一に、もし国民に主権があるならば、なぜ憲法の第一章にまず国民についての規定を設けないのか。この草案では第一章に国民が来るのではなくて、国民のなかの一人に過ぎない天皇の規定が第一に来ております。金森国務大臣はこれを説明していわく、天皇は国民の統合の象徴だから……(声あり)

 しかし、どうして象徴を前にして、実体をあとにしなければならないのか。ここに問題がある。天皇の地位は国民の意思に由来すると憲法に明記してある。これは国民が実体であって、天皇は単なる象徴に過ぎない、こう書いてある。それならば、実体であるところの国民がまず第一に規定さるべきである。日の丸の旗は、わが国の象徴である。では第一章第一条に日の丸の旗を規定することに、政府は賛成されるでありましょうか。勿論賛成されない。世界のどこの憲法にも、象徴である国旗をヘキ頭に掲げるものはない。それでは、なぜ政府はこのようなことをするのであるか。それは、すなわち天皇を神聖化し、天皇に特権的地位を与え、天皇を国民の上に君臨させようとする政府の意図があるからであります。

 第二に、そもそも民主主義とは、国民が自らの手によって政治を行なうことであります。したがって国家機構のなかに、国民の意思によって自由に選任し、あるいはヒ免することのできない機関を設けることは、これは民主主義ではない。(「ノーノー」)これは必要なことです。ところが、当草案には国民が選任し、ヒ免することのできない世襲の天皇を存置し、その天皇の手に諸種の重要な特権を与えております。すなわち当草案第六条および第七条によって、天皇の手には十一のいろいろの政治的な、あるいは儀礼的な国事が与えられている。その中には総理大臣の任命、国会の召集解散、総選挙の執行のごとき重要な権限が含まれております。かくのごとき重要な権限を天皇に与えることは、民主主義の原則からいえば明らかに運行するものである。

 これらの天皇の権限は、国会の指名や、あるいは内閣の承認と助言が必要でありますが、しかし天皇が総理大臣の任命や国会の召集・解散や総選挙の執行を拒絶した時にはどうなるか。この憲法には拒絶しないという保障は一つもありません。ここに、わが国の政治の将来にとって重大な危険があるとわれわれは考えるのであります。過去の日本の歴史にあっては、官僚や軍閥が天皇の特権を利用してあらゆる虐政を行なって来た。この憲法草案ではそのようなことが将来ふたたび起こらないという保障はないのであります。天皇の特権的地位が、将来ふたたび官僚や保守反動勢力の要さいとならないという保障はないのであります。わが共産党が当憲法に賛成しない理由もここにあるのであります。

 第三に、政府は天皇にたいする不敬罪が存在することを言明しております。しかも政府の発表によれば、この不敬罪は現行の条文をそのまま存続する、こういう風に言っております。これは天皇が国民の一人であり、しかも国民は法律の下に平等であるという原則をじゅうりんするものである。単に象徴であるというこの一事からして、なぜこのような異例の取扱いがなされなければならないか。もし天皇が国民の一人であるならば一般国民の地位におけると同様に、名誉棄損罪または侮辱罪の法文を適用すればそれでよいではないか。さらに、不敬罪に問われ、あるいは問われないか、この限界はもっぱら裁判官にまかされております。今日まで不敬罪の罪名によって、いかに多くの無コ(幸)の民がとらわれ、またいかに言論が圧迫されたか、これは世界周知の事実であります。現在世界のどこを見ても、共和国はもとより、君王国においてさえも、不敬罪なるものは実質的には存在していない。「イギリス」においても、これに関する規定はありますが、実質的には死文化している。しかし、日本においては、もしこの不敬罪が規定されるならば、過去におけると同様に、これが警察による人民抑圧の武器となることはきわめて明らかであります。このことは、現に行なわれている東京地方裁判所における一労働者の「プラカード」事件を見てもはっきりしている。不敬罪のごときは、言論の自由を抑制する「ポツダム」宣言の明らかな違反であると断ずることができる。ここにわれわれが当草案に反対する理由があります。

 第四に、金森国務大臣は、天皇はあこがれの中心であると言われた。あるいは心のつながりであるとも言われた。これは天皇を神秘化し、宗教化するための説明です。たしかに、わが国の天皇は、一面では、今日まで、政治上および軍事上の最高統治者であり、同時に最高統帥者であった。だが他面において、天皇は国民の間に半宗教的な役割を演じて来た。国務大臣のいうところのあこがれの中心とは、すなわち半宗教的存在たることを説明しているにはかならない。ところが当憲法草案の第十八条には「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならない。」こう書いてあります。これは、明らかに、宗教と政治との分離を規定している。そうすれば、当草案第一章において、半宗教的存在である天皇の手に、国の特権や政治上の権力を持たすことは、明らかに、当草案第十八条の違反であると断ぜざるを得ない。(発言する者あり)これは明らかに宗教と政治との結合である。この点については特に連合国側においても、特別な警告を発している。われわれは、これは明らかに宗教的なものに、政権をゆだねることを規定しているものにはかならないと考える。それゆえに、われわれはこのような憲法にどうしても賛成することができない。

 当議場において、かつてある議員は、天皇をもって実のない花であるといわれました。山吹の花である、こういう比ユ(喩)を用いられました。もし天皇がなんら実際の権力のない、単なる象徴であるならば何をかいわんやである。しかしこの憲法草案は、天皇を山吹の花とせずして、天皇の手に実際的に政治的特権を与えている。

 われわれが、なぜこの問題をこのようにしつこく申すかと言えば、それは今日の日本の置かれているところの特殊の状態から、すなわちわが国にはいまなお保守反動勢力・軍国主義勢力がガン強に残っているという事実をわれわれは認めるからである。(「ノーノー」)これが残っていることをわれわれは認めなければならない。このとき、少しでも一般国民の上に君臨する特権者が存在するときには、これを利用して再び反動勢力を復活する危険があるからであります。(拍手)これは将来のことではありません、昨日、一昨日、一体この議場においてどんなことが起こりましたか。樋貝議長は天皇にたいする忠誠の名によって、われわれの憲法審議を妨害されたではないか。すなわち天皇の名によってこの議場、この演壇において非立憲的なことが行なわれた。(拍手)またわれわれは「ドイツ」の例を取って見てもよい。あの「ワイマール」憲法、あれは理想的な、民主的な憲法といわれておりました。しかしながら、この憲法が、しかも社会民主党の手によって作られ、その政府の下にこれが執行された。それにもかかわらず――このような民主的憲法にかかわらず、その後において「ヒトラー」は、この憲法を土台として、あの「ナチ・ドイツ」を実現している。いまの日本は「ドイツ」に比べれば、まだ多くの保守反動的な勢力が残っている。こういうときに、このような非民主的な特権者を残すということは、明らかにわれわれの将来に重大な危険を残すということになる。われわれは、日本の将来のために、子孫の将来のために、民主主義のために、少しでも反動的に利用され得るような条項を含む憲法に、どうしても賛成することはできない。われわれは、草案の第一章は民主主義に反する規定であると認める。ここにわれわれがこの草案に反対する第二の理由があります。以上のごとく天皇を規定する第一章は、古き天皇制を新しい形において残さんとするものであります。これは明らかに反民主的規定である。

《憲法草案に反対する》

 以上がわが共産党が当憲法に反対する重要な理由であります。要するに、当憲法はわが国民と世界の人民の要望するような徹底した完全な民主主義ではない。これは羊頭ク肉の憲法である。財産権を擁護して、勤労人民の権利を徹底的に保障しない憲法である。わが民族の独立を保障しない憲法である。天皇の手に特権がある。参議院は官僚や保守反動勢力の要さいとなる。かくして、禍を将来に残す憲法である。



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