2016年8月5日金曜日

相模原殺傷事件

 植松は入社時はどこにでもいる普通の青年だったようだ。最初のころは仕事への意欲も語っていたようである。しかし時給千円にも満たない仕事で、よくなる見込みもない障がい者を介護する日々の中で疲れはて労働の意味も意欲も失っていく。

 そもそもは職場の管理者や理事者、そして障がい者を「収容」としてしか「介護」できない社会に怒りを持つべきところを、「こいつらがいるから」という方向に思いが行ったのだろう。同僚の愚痴もそれを後押ししたこともあっただろう。そういった思いはだんだん仕事にも表れてくる。うつ状態だったかもしれないし一種の自暴自棄な精神を深めていったのかもしれない。

 「介護」と言うものが資本主義の中では「介護労働」として現れ利潤の体制に組み込まれてしまう。そこではもう「労働者」でしかなく、あるべき本来の「介護」とは違うものになっている。賃金が上がる見込みもなく果てしなく続く重労働、その労働にも意味や意義が見いだせないとき、彼の精神は壊れていったのではないか。

 そして退職(免職?)と精神科への措置入院になる。そこでは自分は逆転した立場に置かれるとともに、他の入院患者を見ることによって自らの「障がい者は無駄」という確信を深めたのかもしれない。


 ところで、日本の精神科病院では合計1か月あたり1,500人の死者が出る。自殺は含まない。ほぼ年間では心臓病の死者数と同じくらいだ。


 心臓病やがんという生き死ににかかわる病気ではない。「精神が病んだだけ」でだ。問題行動はあっても、そもそも生き死ににかかわる病気ではない。医療事故で家族が病院を訴えるのは珍しくない。しかし精神科でそんな話は聞かない。隔離・収容の中で何が行われているのか。


 薬漬けの医療と電気ショックの世界なのだ(良心的医師たちが告発し続けている)。いったん入ってしまえば、家族もそれほど退院は望まない。まして薬と 電気でだんだんおとなしい廃人になっていくのだろう。合法的で家族も納得する死の世界、死だけが退院の道である。イタリアでは精神科の入院治療は全廃されている。「収容」や「隔離」は何の効果もないのだ。世界は収容から地域へと大きく転換し始めている。


 ところが精神科に関する薬剤はどんどん開発され高薬価のもと薬効分類が違うために様々な薬を飲まされる羽目になる。薬効分類と言ったって厚労省の認定の問題でほとんど同類の薬だから過剰投与も甚だしくなる。製薬資本は精神病薬に目を向けて利益追求を図っている。


 脱線しかけたが、植松が十分治らないうちに退院したのではないかとの声もあったが、長ければ治ったかと言うとそういうものでもないだろう。むしろ精神科での死亡退院に自らがなっていたかもしれない。


 彼の事件の悲惨さは障がい者といわれている人々への容赦ない殺戮とともに、その殺戮によってこの資本主義社会の偽善的な福祉(の本音)と言う面をも暴き出したことにある。また彼が収容された精神科医療の問題すらまだ闇の中だ。


 保育園の先生の給与が低いことも話題になったが、子育てや介護と言うものは「そもそもどこの家庭でも普通にやっていたこと」という観念から、スペシャリ ティが認められない。だから代替労働として低い価値しか認められなのだろう。それほど資格を要さない介護現場など労働者は非正規で使い捨てである。


 「資本主義を打倒せよ」と言うのは労働現場から賃金問題として発せられた言葉であったが、今や(もちろんそうなのだが)社会の問題として、人間の生きるための要求としても「資本主義を打倒せよ」と言わねばならないと僕は思う。(AN)


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