★自民党と反動どもの改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
★「搾取の廃絶」と「労働の解放」の旗を高く掲げよう!
★「労働者党再建」と「国政への復帰」を勝ち取ろう!
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「海つばめ」ダイジェスト 第483号
2016年9月3日【無料版】
マルクス主義同志会 http://www.mcg-j.org/
――嵐よ! 強く強く吹き荒れろ!――
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シールズは保守主義の個人主義者
引き回された野党は余りに幼稚で低俗
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シールズが解散した。解散するのは彼らの勝手だが、無責任のそしりは免れない、というのは、彼等の奨めた野党共闘によって、それを一つのきっかけとして、むしろ野党勢力は後退し、憲法改定を国民に提起できる、国会(参議院)における3分の2を超える、保守派、反動派の議席獲得を可能にし、助けたからである。安倍政権に対する、アベノミクスや軍国主義路線に対する、一貫した、毅然とした闘いを貫徹することなしに、安倍を追い落とし、闘いの道を切り開いていくことはできなかったのである。
シールズの諸君の発言を追いながら、彼らは何者であったのか、そしてどんな階級や階層の立場から発言したのか、彼らの立場は“改革”を目ざし、前進的、進歩的であったのか、それとも保守的で、現状維持的であったのかを検討してみよう。シールズの幹部はしばしば以下のように語っていた。
「僕たちは何も変革を起こしたいんじゃない。自由に生きたいだけです。今まで通りの平和な日本を守りたいだけなんです」
こうした発言は余りに明白であり、決定的である。こうした発言が学生によってなされたのは必然であり、まさに「学生」という身分階層の本性を暴露している。
というのは、日々資本のもとで困難な“強制労働”――それが経済的な手段による強制労働であるか、直接の強制労働によるものであるかは問わないとしても、明白な一種の“強制労働”――に駆り立てられ、しかもギリギリの生活で生きるような地位に追い込まれている、何十、何百万の労働者、勤労者の発言でないことは一目瞭然だからである。
労働者、勤労者は決して、デモに参加しつつも、「何も変革を起こしたいわけではない」とは言わないだろうし、また「自由に生きたいだけ」とも、「今まで通りの平和な日本を守りたいだけなんです」とは言わないだろうからである。
労働者にとっては、資本の支配する現実社会は、少しも「自由」でも「平和」でもないこと、日々「不自由の」なかでの、生活と人生のための絶えざる「戦争」のちまたであることは余りに明白である。
そんな資本の支配する社会が、いかにして、根底的に「自由」で「平和」な社会であるのか、あり得るというのか。
また彼らのやっていることや実践や行動は、最初から言っていることや主張と根本から齟齬を来たし、矛盾していた。例えば、安倍さくらは次のように語っていた。
「当たり前と思っていた平和、自由は、実は簡単に壊れていってしまうもの。それは自らの手で作り、守らなくてはならないと気づいたとき、人任せにすることを止めて、自分自身で担うことが必要と考えた」
寺田ともかも、「私たちが伝えたかったのは、誰かに期待するのではなく、個人が行動すると言うこと、とても長い闘いになると思う。私たちにできることを個人として続けていく」と同じように語っている。
彼らが「人任せにすることを止めて、自分自身で担うことが必要と考えた」とか、「誰かに期待するのではなく、個人が行動する」とかいったことは、戦争反対を叫んだ15年秋の国会デモのことについて言っているのか、16年夏の参院選における野党共闘のための活動とか、野党共闘候補つまり民進党等々の候補への応援について言っているのかは知らないが、いずれにせよ、民共や民共の候補者に対して働きかけ、そんな政党や議員たちに期待し、「任せて」の活動であったということ、つまり「自分自身で担うことが必要と考えた」とか、「誰かに期待するのではなく」とかいったこととは、まさに“真逆の”行動であったこともまた一目瞭然であった。
民共など信じ、そんなインチキ政党に「任せて」おいて、「人任せにするのを止めた」も「誰かに期待するのではなく」も何もないのである。民共に「任せる」など、最低、最悪の「人任せ」であり、「期待する」ことではないのか。
浦田沙緒音も負けずに言う。
「誰かが動いてくれるのを待つのは違うなと思った。これからも活動を続ける」
もちろん、「これからも活動を続ける」という決心にけちをつける気持ちは毛頭ないが、一体どんな活動について言っているのか。
「一人一人が発信し、行動して行かなければ、今の状況は変わらない」と言うが、それはいいとして、一人としての一人の発信や行動は意味をなさないからこそ、シールズはシールズとして、つまり組織として、団体として発信し、行動したのではないのか、そうしたからこそ、はじめていくらかでも社会的な反響を呼び、いくらかでも影響を持ったのではないのか。シールズとして発信するのを止めて、単なる「一人」として、つまり単なる個人として発信し、行動するなどといっても現実的な力も影響力も何も持たないこと、持ちえないこともまた明らかではないのか。
そしてまた、何を意味するのかさえもはっきりしない「市民」としての個人は無力であると自覚し、反省したからこそ、小林節は市民を代表し、その結集点を求めて、自ら市民派の政党を組織、参院選に打って出たのだが、市民派や市民団体は極めて冷淡であって、野党共闘候補の応援や支援には熱心ではあったが、小林の闘いにはそっぽを向き、事実上見殺しにした。
これは市民派運動の一大矛盾であり、破綻であり、あえて言えば自殺行為でさえあった。自殺行為とは、小林が市民派の政党を組織して立候補したこと自体をいうのか――市民派の政党の組織とは、彼らの個人主義的プリンシプルに根本的に反しないのか、矛盾そのものではないのか――、それとも、市民派が市民派候補にそっぽを向き、事実上彼らが嫌悪し、軽蔑さえする民共という“政党”の、つまりあえて言わせてもらえば、最低、最悪の“政治組織”の候補者の応援に熱中するという茶番を演じたことを指すのか、それともその双方であったかは言わないとしても、である。
結局、市民主義者とか市民派といった個人主義者たちは実際の政治に乗り出し、野党に忠告し、彼らに影響を与え、彼らを“正しい”方向に導いているといった、安直なうぬぼれと思い上がりと幻想にふけったが、客観的には(現実政治の中では)、民共の政治に追随し、その無力な尻尾となり、せいぜいどうでもいい応援団の役割以上を演じることしかできなかったのである。彼らの“政綱”が共産党などのプチブル党と全く同じであり、抽象的な「平和」とか「民主主義」とか「自由」とかいった、単なる言葉に、言葉だけに留まったのも決して偶然ではない。
小林の立候補は総じて、市民派には評判がよくなかった。少なくとも、市民派の総力を挙げて、市民派の議員を生み出そうという熱気も意思も実践も見られなかった。
ある市民派の知人は、今回の参院選の結果に痛く失望し、絶望さえしたのだが――この市民派はなぜか民進党は第2自民党であると“一刀両断”で切って捨てながら、いまだに安倍政権と闘うためには共産党に頼るしかないというのだから、混沌と矛盾そのものである――、そんな信頼すべき共産党がせっせと、第2自民の民進党のために犬馬の労をおとりになっていらっしゃる事実に対して、全く盲目であり、無批判的であるのはどういうことか、健全な判断力を失ってしまったのであろうか。
この市民派は、小林の立候補について、あの人は学者としては立派で、いい仕事をしてきたが――もちろん、そんなことは決してないのだが――、そんな自分の分を超えて選挙などに出るからいけないのだと評論し、自分の小林への冷淡と共産党への応援を正当化したが、市民派として少しも一貫しないことを自覚していない。そもそもスターリン主義の汚物にまみれ、官僚主義や権威主義で悪臭芬々の腐敗政党が、なぜ市民派のお気に入りなのか。市民派は人(政党)を見る眼が全くないと結論するしかない。
シールズの連中は自らが破産したのを自覚してか、しなくてか、あれこれのうぬぼれや自己満足、そして自己慰撫にふけっている。
奥田愛基はいう。「これまでの政治や社会運動は、伝える能力がものすごく取り残されていた。が今の政治には欠けている」と、大層偉そうな口を利いたが、北海道の補欠選挙の応援に入った後は、選挙結果に驚き、影響が数字になって出るのにびっくり仰天し――つまり、自分たちの訴えが、数字として出てこないのに驚き――、自分たちの「戦争反対」のデモが広汎な労働者、勤労者大衆の心とは遊離していたことを認めざるを得なかった、つまり自分たちこそ観念的であって、「受け取る側を考えながら伝える想像力」が自分たちにも「欠けている」ことにようやく気がついたが、それでも、自分たちの「政治」が共産党などと同じ程度のブチブル観念主義と不可分であったことに気がついていないのである。
また山本雅昭は、「今までの選挙は政党や政治家や政党が作り、争点も政治家に決められていた。今回市民が声を上げて生まれた争点があり、勝たせたい候補のために市民が動いた」と意味不明なことを言っているが、彼のいう「市民が声を上げて生まれた争点」とは一体何のことであろうか。
牛田悦正は「市民の政治参加が当たり前の文化を作ろうと活動してきた。これからは日本人一人一人が始めてほしい」、「市民の政治参加を当たり前にすることは、今始まったばかり。シールズが終わっても、それを担っていくのは、僕らもそうだけど、あなたたち一人一人であり、みんなが始めるべきである」とも主張するが、「市民」とは誰か、いかなる社会的な概念規定かが明らかにされないなら、何の意味もない空文句であり、気楽な学生のひとりごとを出ない。
民進党はともかく、志位は野党共闘をさらに発展させ、来るべき衆院選を政権選択選挙にまで貫徹していくと大張り切りである。
志位のとんまさ加減はさておくとして、志位と共に二人三脚で野党共闘のために奮闘したシールズは、野党共闘に責任を持つのであって、最低限、参院選におけるその意義や成果についてきちんと総括し、今後は実践的にどう関わりを持つのかを明らかにする義務を負っている(もし無責任シールズの汚名を免れようとするなら、ではあるが)。解散して済むことではない。
自由主義的マスコミは、「組織に属さない個々の市民」といったものを美化して止まないが(朝日、22日の社説)、一体そんな「市民」を概念規定できるのか、さっそくしてみてから、全ての責任ある発言を始めるべきではないのか。
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